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沈香老散茶50年代プーアル茶

chen xiang lao san cha 1950s

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

沈香老散茶50年代プーアル茶

製造 : 1950年代初期
茶廠 : 易武山私人茶庄
茶山 : 易武正山
茶樹 : 大葉種 喬木 古樹
茶葉 : 6-9級
工程 : 生茶
重量 : 散茶のためグラム売り
倉庫 : マレーシア未入倉(常温の乾倉)

甘味
●●●○○ やさしい甘み
渋味
●●○○○
とろみ
●○○○○
酸味
●●○○○
苦味
●●○○○
香り
●●●●● 沈香、白檀、桂皮、蘭香
熟成度
●●●●○陳化しきっている

「沈香」が特徴の、枯れた味わいのプーアル茶です。
お茶の香りというよりも、白檀や伽羅など香木に近い、いわゆる「お香」の香りがします。1700年頃~1950年頃まで易武山に栄えた私人茶庄、幻のプーアル茶です。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

■易武老街の茶荘の歴史

雲南省西双版納州孟臘県(モンラー)の易武山は高低差が海抜700メートルから1800メートルの深い山と谷からなり、雨や霧の多い温暖な気候です。1200メートル以上の高山地帯は涼しく安定した気温で、お茶づくりに適し、有名茶山としての歴史があります。
+【西双版納江北の有名茶山】

易武山は西双版納の旧六大茶山のひとつです。旧六大茶山には「革登」・「莽枝」・「蛮磚」・「曼撒(旧易武)」・「倚邦」・「攸楽」があります。
西双版納の一帯ではお茶づくりが古くからあることで知られていますが、1700年代~1800年代の西洋との茶交易が全盛期のころ清朝から「貢茶」に選ばれ、その輸出によって外貨を稼いだ高級茶づくりの歴史は孟臘県(モンラー)の六大茶山にあります。そのなかでも易武山は、茶葉を農家から集めてお茶づくりをした私人茶荘が集まり栄えていました。
易武山のお茶の風味は、華やかな香りと軽快な印象を保ちながら、濃厚な存在感を持つのが特徴です。
西双版納には山岳少数民族によるお茶づくりもあり、いつそれがはじまったのかわからないほど古いのですが(記録に残っている最古のものは西暦220年頃とされています。)それは物々交換を基本とした交易でチベットやインドまで運ばれていましたが、それらは遊牧民など辺境地の人々の生活を支えるためのお茶でした。都市に向けて流通した易武山のお茶とは基本的に性質の異なるものです。
西双版納のお茶が都市に流通するのは、漢民族の移住者がこの土地に入植してきた明の時代末期の1600年頃からとされています。

追記: 
唐代(618年~907年)に易武山麻黒村での漢族によるお茶づくりが記録されていることを後に知りました。ただし、この時代は西双版納は唐王朝の領土ではりません。チベット・ビルマ語族の「南詔王国」の南の端に位置しますが、実際のところこの地域は国という概念が浸透していなかったため、人々はどこの国かというのを意識していなかったと推測できます。

しかしそれ以前に山岳少数民族のヤオ族がお茶をつくって漢族に売る仕事をしていた形跡があり、都市に開化した喫茶文化の求めるお茶づくりの布石はすでに打たれていたと言えるでしょう。
易武山の茶葉を馬に積んだキャラバンが山岳地帯の難所を越え、各地にお茶を運ぶための石畳の道が易武山のあちこちに残っています。

茶馬古道
茶馬古道

1700年頃~1950年頃まで私人茶庄は自らお茶をつくって販売していました。そのほとんどは円盤型に圧延した固形茶で、七枚一組に竹の皮で包み「七子餅茶」でした。当時は円盤型の餅茶を「圓茶」と呼びました。現在香港で1枚100万円以上の価値がつくお茶はすべてこの土地でつくられた古い圓茶です。
またここでは収穫して「晒青毛茶」にまで加工した茶葉をしばらく保存して陳化させる、近年の倉庫熟成にも似たことも行われていました。まろやかな風味をつくろうとした試みは、都市の需要に応えるためだったと思われます。

追記: 
易武山での陳化は、無加水状態での微生物発酵がおこることがわかりました。つくった晒青毛茶(天日干しの緑茶)を麻袋や竹籠に摘めておくだけで、雨季であり夏の季節がくると微生物発酵します。つくった後の茶葉が発酵して黒茶となります。くわしくは以下のお茶のページをご参照ください。
+【丁家老寨古樹の黄片2012年プーアル茶】

1700年代にこの土地から西洋の港に運ばれるまでには、広州の港まで3ヵ月、北から南へ吹く冬の貿易風にすぐに乗ったとしても中継のマラッカまで2ヵ月、そこで風向きが変わるのを半年待ってインド洋を超えるのに3ヵ月、アフリカの喜望峰をぐるっと周って大西洋を横断する航海は1年~2年もかかっていた記録があります。
とくに気温と湿度の高い南海の海をめぐる木造船や港の倉庫の中では熟成が進みます。おそらく西洋の港に着く頃には生茶が紅茶のように熟成していたと当店では推測しています。西洋人は紅茶の味を好んだことから、まろやかな風味が求められたと逆に考えることもできます。

易武老街
易武老街
易武老街

私人茶庄の中にはお茶の歴史に名が残る「李聯號」、「同昌號」、「宋聘號」、「慶春號」、「同順祥(同興號)」、「守興昌」、「同泰昌」、「車順號」などがあります。いずれも一族経営のため「私人茶庄」と呼びます。
易武老街には私人茶庄が20軒ほどあったということですが、この「沈香老散茶50年代」をつくった私人茶庄もそのうちのどれか一つになります。
「○○號」の名前がそのまま商品名にされていたことから、この時代の易武老街のお茶を「號級」のお茶と呼んでいます。 (1950年以降にも號級と銘々されるお茶はありますが、それらはレプリカモノです。内容まで研究されてつくられたのは『真淳雅號圓茶96年』のみです。)
「○○號」とは当時の茶業におけるメーカーの役割をする業者につけられた名で、その他に「○○行」は農家から茶葉を集めてくる業者、「○○桟」は仲介業者、「○○洋行」は貿易会社となっていました。

宋聘圓茶 1930年代 内飛
宋聘圓茶 1930年代 内飛

宋聘圓茶 1930年代 内飛(茶葉に埋められた紙)
「宋聘號」は、易武老街の中でも最も高級品をつくっていたことで名高い私人茶庄です。茶葉に添えられる「内飛」と呼ばれる紙のデザインも洗練されています。

易武老街の石碑
易武老街の石碑
易武老街の石碑

易武老街の博物館に収蔵されている石碑
茶交易の記録もあります。

私人茶庄が衰退したのには社会的な背景があります。
中国のお茶はヨーロッパやアメリカに売れましたが、西洋の植民地政策がすすむなかで最大の消費国であるイギリスは貿易不均衡になり、1842年アヘン戦争後の南京条約により清国は半植民地状態へとなりました。
それでも世界的なお茶需要は高まる一方で、イギリスは植民地であったインドへと生産拠点を移し、1800年代の終わりごろから徐々に中国独占状態が崩壊してゆきます。
さらに1924年~の内戦、それに続く1938-1945年の日中戦争から太平洋戦争、その後の内戦のつづきにより、雲南のお茶どころも一時的に衰退しました。
1949年に中華人民共和国が成立し、国内の情勢が平穏になり、需要も回復して私人茶庄のプーアル茶づくりは盛り返しはじめていました。
この「沈香老散茶50年代プーアル茶」はこの頃に作られています。

しかし1953年から国による農業や商工業の社会主義改造の改革が始まり、公私共営、国と個人の共同経営が義務付けられます。雲南の茶葉は国の計画のもと統一買付統一販売の商品になります。これによって私人茶庄は小売りは許されても、卸売りができなくなり、事実上商売が成り立たなくなります。

さらに1955年から農村の協同組合化がはじまります。1956年末~1958年農村は次々と人民公社となります。(人民公社は毛沢東の政策「大躍進」の前後からはじまり、1980年代前半に解体されます。)
六大茶山の茶葉は人民公社による専売公社制となり、統一買い付けされ計画的に販売されました。高級茶向けの茶葉の多くは紅茶と緑茶に加工され、ロシアや東欧をはじめとした海外に輸出されました。
輸出向けの高級プーアル茶作りは「私人茶庄」から国営工場の孟海茶廠などに引き継がれます。
国営工場は看板となる商品をつくるべく、当時最高の茶葉と職人の技術を終結したお茶『紅印圓茶』をはじめとした「印級」のお茶づくりをします。それらはすべて広州の港から自由貿易港の香港経由で海外に輸出されました。
「印級」のなかでもっとも早期に作られたとされる「紅印圓茶」にまつわる歴史を「早期紅印春尖散茶」のページにまとめているので、ご参照ください。
+【早期紅印春尖散茶】

こうして易武山の私人茶庄によるお茶づくりは消滅します。
私人茶庄の一部は国営工場の下請けをしたり、タイに移住して細々とプーアル茶づくりを続けていました。メコン川でつながるタイは茶葉の輸出ルートの一つであり、易武山の茶葉をそこへ運んで餅茶を作って売ることが出来ます。

1980年代から改革開放路線になった中国は、工業生産による経済発展が著しくなります。雲南の山にも市場経済が導入されたのは1990年代末頃からです。民営のお茶づくりがふたたび可能となりましたが、しかし交通の便利の悪い易武老街にかつてのお茶づくりは戻りませんでした。現在あるのは古い石畳の残るさびれた史跡です。
新しい民営のメーカーや茶荘は、易武山でも舗装道路が通り、十分なスーペースの確保できる土地にお茶づくりを再開しています。

■このお茶の特徴

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

このお茶『沈香老散茶50年代』は散茶として売られたもので、竹で編んだ籠に約32kg分はいって麻袋に詰められたまま保存されていました。竹の籠の中では真ん中の茶葉ほど熱を持ちやすく、陳化(熟成して変化すること)が早く、黒っぽい色に変化しています。
麻袋には「豊」という文字が入っておりますが、「豊」という字のつく私人茶庄は何軒かあったとされているため特定できません。
このお茶が散茶のまま販売されていたことから、「茶号」と呼ばれたメーカー的な茶荘ではなく、「茶行」と呼ばれた、茶葉の卸的な役割の茶荘だったのかもしれません。
当店には香港の茶商から入ってきましたが、数年前まではマレーシアの華僑が所有していたものです。19世紀の茶交易の時代のマラッカ海峡の寄港地としてマレーシアのペナン島やマラッカ港が栄えたことから、お茶に精通する華僑の多いところです。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

易武老街でみかけたよく似ている「豊」の文字。
ちなみにこの写真の「元泰豊茶庄」は1905年頃に創業され1938年に廃業となっているので、このお茶を作った茶庄とは異なるようです。
参考文献:「六大茶山歴史考」雲南美術出版 高発倡著

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

茶葉は枯葉が堆積しているように見えます。
乾燥しきった茶葉はパリパリになっていて、指でつまんでも崩れるくらいです。長年の保存によって質が変化しています。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

葉底(煎じた後の茶葉)
葉底(煎じたあとの茶葉)は黒々としていて、まさに枯れた状態です。水を含んで茶葉が膨れることはなく、カサカサした質感です。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

易武山三合社大葉黄片餅茶09年(当店試作品)
もともとの茶葉は「黄片」と呼ばれる成長した茶葉です。茶摘は通常1芽3葉ですが、黄片はそれよりも成長したもので厚みがあり香りが弱いため、春の新芽や若葉の風味を重視するお茶作りには適していません。春摘みの茶葉を選別する時に分けられたり、少し季節外れに摘まれます。豊富な栄養分が熟茶の渥堆発酵に適しているため、熟茶製品にはこのタイプの茶葉がブレンドされているものが多くあります。
この写真の茶葉は殺青と揉捻が手作業でされていますが、茶葉はあまり捻れずにペタッとしています。成長した茶葉は硬くて厚みがあるため捻れにくいのです。このため餅茶にすると表面の見かけが悪くなります。黄片の茶葉が生茶の餅茶作りから取り除かれるのはこのためもあります。

■このお茶の試飲

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

湯を注いだときからお香のような香りが漂います。
味は淡く、刺激の少ない風味は舌にまろやかで喉を滑り落ち、香りの余韻を口に残します。雑味のない透明感のある味ですが、広がりや奥行きは十分に感じられ、老茶の貫禄があります。
年代モノの易武山の茶葉(1980年代まではまだ古茶樹が標準)には共通した香りがあります。製茶技術や茶葉の選び方や圧延技術は違えど、もともとの茶葉にある香りは茶山によって異なる個性があります。
易武山の茶葉には煎を重ねるほどにかすかにお香のような香りが漂います。ここで沈香や白檀と表現している香りです。未だ年数がたっていない新しいうちは華やかな蘭香や鮮烈な樟香と呼ばれる香りが際立ちますが、それでも煎を重ねて味も香りもかすれてくると、どことなく共通したお香の香りとなってきます。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

この3つはいずれも「沈香老散茶50年代」とおなじく1920年~1950年代の易武老街の私人茶庄の手がけたものです。マレーシアやタイなどの華僑の手元にあったものです。広州の茶商のところへマレーシアの老舗店のオーナーが持参した易武山老散茶コレクションを味比べする機会がありました。見かけは異なりますが風味はまぎれもなく易武山の老散茶のもので、共通したお香の香りがあります。

易武正山の老散茶プーアル茶

いずれも口に優しく、味があるようなないような淡いものですが、淡いゆえに空間の広がりや奥行きが感じられます。かすかな香りさえも存在感のある印象をつくります。口に含んでから喉を通り過ぎ後味が残る過程で変化する風味には空間や時間の広がりを感じさせます。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

葉底(煎じた後の茶葉)
葉底の茶葉の色や質感や香りにも共通したものがあります。
茶葉には厚みがあり、表面は鮫肌でザラザラしています。茶の茎が適度に混ざるのは保存熟成のときに通気性を良くし、上手に熟成できると考えられているためです。1970年代からのメーカーでの人工的な発酵では茎の部分の糖分が菌類に栄養を与え、発酵がうまくゆくということも見つけられています。またお茶の味に甘味を加えます。

これら特徴ある風味や香りは、人工的に添加したり、燻したり、焙煎したりの二次加工では作りにくいものです。念のためそのようにして作られた茶葉も当店ではサンプルにして比べるようにしています。

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

左:熟茶で焙煎されているもの
右:生茶で焙煎されているもの
焙煎のお茶には独特の火の香りがします。また、味には厚みがなくなっておりやや単調に感じます。それに対して老散茶の味は透明感がありながらも複雑で厚みを感じます。
独特の香りには、香料を添加するというケースも考えられますが、添加した香りというのは外から香るもので、老散茶のように口の中から息が抜けて香るものではありません。また何煎かすると添加された香りは流れてしまい薄れますが、老散茶の場合は何煎してもそれがつづきます。

■その他

沈香老散茶50年代プーアル茶
沈香老散茶50年代プーアル茶

金花といわれるカビの一種が見つけられます。これはお茶を美味しくしたり人の体に良い作用をする麹菌の一種です。そのものに栄養や旨味があるので、茶葉といっしょに煎じて飲みます。
また、木の実・小枝・小石・竹の紐などなど茶葉に混じっていましたが、これもごく少量で、購入された茶葉からは見つかることは少ないでしょう。古い茶葉であることが裏付けられるようなものなので価値を落すものではありません。あらかじめご了承ください。

沈香老散茶50年代プーアル茶

沈香老散茶50年代プーアル茶

茶葉の量のめやすは以下をご参照ください。
+【5gの茶葉でどのくらい飲めるか?】

保存方法については、以下のコーナーをご参照ください。
+【プーアール茶の保存方法】


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+【このプーアル茶の詳細】


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