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西双版納の江北の茶山について

■江北六大茶山について
西双版納を縦に流れる瀾滄江(メコン川)の東北側には、孟臘県(モンラー)江北六大茶山と呼ばれる山々があります。「革登古山」、「莽枝古山」、「蛮磚古山」、「曼撒(易武)古山」、「倚邦古山」、「攸楽古山」です。

江北には高級茶づくりの歴史があります。
明朝(1368年-1644年)末期に、ラオスとの国境付近の易武山周辺に漢族が移住した記録があり、北に栄えていた都市に向けてお茶の流通が開けます。
喫茶文化の開化した都市の求めるお茶の味は、それまでの民族同士が交易した生活のお茶とは異なりました。

清代の1700年代には「貢茶」に選ばれ、皇帝に納める名目で外国との交易品となって国に収益をもたらしました。
重い徴税を課す政府と、茶業に携わるいくつもの民族からなる地元の人々との抗争は、民族を超え国境を越え、火花を散らした歴史もあります。

易武山の茶葉 易武山の茶葉

易武山の晒青毛茶(プーアール茶の原料の茶葉)
江北六大茶山の茶葉には、蘭香や香草(バニラ)などふんわり華やかな香りに特徴があり、味わいは滋味ありながら淡麗で、水墨画のような清らかさがあります。


■象明について
「象明」と「易武」は孟臘県の東北部にひろがる茶山の一帯です。
瀾滄江の支流「磨者河」がこの2つの地域を分けています。
明代末期にこの土地に漢族が移住し、西双版納に高級茶づくりをもたらしました。象明の一帯には、西双版納の原種である大葉種の茶樹以外に、北から持ってこられたとされる小葉種の茶樹が今も残っています。

象明には江北六大茶山のうちの4つ「革登古山」、「莽枝古山」、「蛮磚古山」、「倚邦古山」があります。
清代の貢茶づくりは象明にはじまり、徴税を課す政府との攻防の後、易武山に移りました。そのため現在は易武山のほうがお茶づくりが盛んです。
現在は茶山だけが残り、農家が晒青毛茶づくりを続けています。

象明 象明
象明 象明
象明 象明

(写真: 磨者河と象明の山と町)

■倚邦(yibang)
象明の街から山道を1時間半ほど車で登ると、倚邦の老街に着きます。
貢茶づくりを行った古い茶荘が並んでいた老街の石畳が今も残っています。
+【倚邦古茶樹 写真】

倚邦 倚邦

茶荘(私人茶庄)はこの一帯の茶山から毛茶を集め、圧延加工した餅茶を外地へ販売していました。今日にもその名が知られている茶荘「元昌號」・「同昌號」・「鴻昌號」・「恵民號」・「兼蛮磚楊聘號」・「恒盛號」などがここにありました。これらの茶荘は徐々に易武郷のほうへ引っ越し、倚邦は衰退してゆきます。1940年代に茶への課税を不服とする基諾族(ジーノ族)の反乱で、町が焼かれた記録があります。

倚邦 倚邦
倚邦 倚邦
倚邦 倚邦
倚邦 倚邦
倚邦 倚邦
倚邦 倚邦

家屋は古い建物ではなく、新しく建築された簡単なものです。茶農家がひっそりと暮らしています。屋根の瓦、狛犬の石像、馬の水飲み場、柱の敷石、などに昔の面影が残っています。
農家の家の中には清代の乾隆帝からの石碑や看板が保存されています。村の突き当たりにある2本の大きな老木は、キャラバンの馬たちを休息させた場所です。

倚邦の小葉種の茶樹 倚邦の小葉種の茶樹
倚邦の小葉種の茶葉 倚邦の小葉種の茶葉

倚邦の古茶樹は小葉種です。
西双版納原生の大葉種ではありません。四川省から漢族が持って来たとされる茶の種類です。訪問時に茶農家で飲んだお茶も小葉種で、緑茶に似た軽快な苦味に特徴がありました。
倚邦でのお茶づくりが最も盛んだった清の時代1730年頃は2万株ほどの茶樹が栽培されていたそうですが、現在は1300株ほどに減っています。

■曼庄(manzhuang)
曼庄村は旧名蛮磚、六大茶山のひとつです。ここにもかつて老街がありました。その面影が道のわきに鎮座している狛犬と、農家の石垣や階段に再利用されている石畳の石に見られます。

曼庄 曼庄
曼庄 曼庄
曼庄 曼庄
曼庄 曼庄

曼庄の古茶樹は人里からそれほど遠くないところにありますが、自然林とともにある生態環境の良い状態でした。枝ぶりは自然に伸ばし放題の野生的なものですが、1970年代に切り戻しが行われた跡が根元に見つけられます。大葉種で樹齢は300年程度だと思われます。

■曼松(mansong)
清代の乾隆帝に納めるための貢茶づくりに指定された茶地です。
ここの茶葉で「金瓜貢茶」がつくられ、外交の礼品にされました。その実物は北京博物館に収蔵されています。
現在はたった3本の古茶樹が残っているのみです(近年他所から移植されたものです)。ちなみにその6本の茶樹からつくられた晒青毛茶は1kg5000元(2011年)で取引されています(そもそも無い茶樹なのでプロモーションのための嘘です)。その周辺は現在新しく植樹された量産型の若い茶樹の新茶園となっており、高級茶の産地としての魅力は失っています。

■革登(ge deng)・莽枝(mang zhi)
ふたつの連なる山です。ここも小葉種の茶樹が森に残っています。お茶づくりの村は過去にいったん消滅し、現在は周辺の新しい村がお茶に関わっています。

革登 革登
革登 革登
革登 革登

+【革登山 古茶樹 写真】


■易武山
西双版納の東北側のラオスと国境を接する一帯が易武山です。
易武郷へ貢茶づくりの茶荘が移った頃からおよそ200年ほど、民間の茶荘のお茶づくりが続いていました。

1950年頃に国は茶業を専売公社制にし、ここでのお茶づくりが終息します。

その後も茶山に残った農家は茶の栽培と毛茶づくりを続け、国営茶廠に納めていました。国営茶廠が海外向けにつくった高級茶は、ほとんどが易武山の茶葉が使われていました。

2000年頃から茶業が自由化され、易武山でのお茶づくりも可能となりましたが、交通の便の悪い辺境地のため、かつての盛況はありません。
春にはこの山奥の小さな町に、遠方から毛茶を買い取りに来る茶商が集まります。

易武山 易武山
易武山 易武山
易武山 易武山
易武山 易武山
易武山 易武山
易武老街 易武老街
易武山 易武山
易武山 易武山

易武郷の町には民宿や店舗のある大通りと、老街と呼ばれる古い路地があります。老街には茶馬古道の一部である石畳や古い茶荘の壁や柱が今も残っています。

易武山 易武山

老街につくられた小さな博物館には、清代の石碑が収蔵されています。写真は1838年に易武山の茶の重税のために起った紛糾を収めるための取り決めが記された「茶案碑」と呼ばれるものです。
税を逃れるためにラオスやベトナムへお茶を運ぶことが容易にできる辺境地のため、清朝政府も密輸対策に苦慮したものと思われます。

■易武山の有名寨子
易武山一帯には各山ごと、あるいは各村ごとに農地があります。
それぞれに風味が異なりますが、茶葉に特別華やかな風味のある農地は限られています。
易武郷からラオスに向かう路線の「落水洞」、「麻黒」、「大漆樹」が高級茶づくりの有名寨子(集落)です。貢茶づくり時代からの漢族の村です。
この周辺には今も茶馬古道の敷石の跡がいたるところに残っています。

易武山麻黒 易武山麻黒
易武山落水洞 易武山落水洞
易武山大漆樹 易武山大漆樹

易武山麻黒村大漆樹の当店のオリジナルのお茶
【易武古樹青餅2010年プーアル茶】
【易武春風青餅2011年プーアル茶】

■易武山の気候と古茶樹
年間平均気温17度。年間降水量1900ミリメートル。易武山は特に霧が多い地域で、乾季以外の季節はほぼ毎日霧が発生しています。

易武山 易武山
易武山 易武山
易武山老三合社 易武山老三合社
易武山老三合社 易武山老三合社
易武山大漆樹 易武山大漆樹

易武山の古茶樹は樹齢200年~300年の切り戻し型がほとんどです。なかには400年を超えると思われる幹の太い茶樹もあります。
現在の切り戻しは1970年代の農業改革が影響しています。
しかし、それよりも以前の古式の栽培方法にも切り戻しは行われていました。おそらく漢族による栽培の始まった1570年代頃から行われています。

易武山高山茶園 易武山高山茶園

高山寨や曼撒茶山(旧易武山)の丁家寨には、枝を短く切らないで長く伸ばし、枝や葉を少なく保つ剪定方法が古くから伝わっています。
麻黒寨や落水洞寨では、枝を短く剪定して庭木のように整えます。
現在は茶樹の仕立て方にこの2つがあります。
お茶の風味もそれぞれです。

易武山老三合社 易武山老三合社
易武山老三合社 易武山老三合社

農地から裏山に入ると、自然林の中に野生茶樹がたくさん見つかります。上の写真は易武山三合社寨の山頂付近にあった野生茶樹です。
樹齢およそ1000年。幹の直径約60cm。背丈約12メートルです。


■漫撒茶山(旧易武山)
清朝1700年代に貢茶に選ばれ、易武山のお茶づくりが隆盛を誇った時代は、易武山と漫撒茶山(旧易武山)とがこの土地を二分してました。その境界線は易武山の麻黒寨から奥の大漆樹寨にあったということなので、大漆樹はその時代からすると漫撒茶山になります。

大漆樹の茶馬古道 大漆樹の茶馬古道

1800年代の大規模な山火事により漫撒茶山のお茶づくりはいったん消滅しましたが、近年の辺境地のお茶人気にともない再び注目されています。「弯弓」、「一扇磨」などが有名です。

弯弓 弯弓

「弯弓」は、清の時代には400戸の民家の集まる村が栄え、周辺では一番大きな寺院の「弯弓廟」がありました。現在はその面影も無い人里離れた自然林で、国有林となっていますが、かつて栽培されていた茶樹が生き延びて野生化しているのが注目され、季節になるとヤオ族が山に入って茶摘みをし、山小屋で製茶しています。弯弓の春の毛茶の産量は1トンほどしかありませんが、人気が集中し、価格は易武山でもトップクラスです。道なき道を行く弯弓の深い山へ入るのはその土地の人でも難しいため、そこがまた魅力となっています。
+【弯弓 瑶族の山 写真】
+【弯弓2013年 秋天 写真】
+【一扇磨古茶樹 写真】

丁家寨を望む 丁家寨を望む
丁家寨を望む 丁家寨を望む

「丁家寨」は裏山がすぐにラオスになる辺境の地です。ベトナムやラオスがフランス領の頃、そこへ茶を運んで売っていたことがありました。
丁家寨の当店オリジナルのお茶
【丁家老寨青餅2012年プーアル茶】
「刮風寨」は麻黒寨からさらに奥へ、人かバイクがやっと通れる道を徒歩なら9時間。ここもラオスと国境を接するヤオ族の村です。村からさらに3時間ほど山登りをした原生林に点在する野生茶樹が近年注目されました。海抜2000メートルにも達する高地にあるため強い香りをもちます。しかしここでも近年は新茶園が開発され、本物は少なくなりつつあります。

丁家寨を望む 丁家寨を望む

漫撒茶山が産地として名を馳せたのは明代から清代にかけてです。この地域のお茶づくりが盛んになったのは1570年代に紅河州石屏の漢族が移住してからのことですが、それ以前は山岳少数民族によるお茶づくりが行われていました。とくにヤオ族はこの土地のお茶づくりに深くかかわっています。移動の民であるヤオ族は現在その多くがラオスに移り住んでいますが、かつては広西省の山岳地帯から元の時代(1271年~1368年)に漫撒茶山へ移動してきたとされています。広西省の頃から漢族の都市に茶を販売していた実績があるため、製茶技術において古い喫茶文化の影響を受けています。新芽や若葉を鉄の鍋で炒ったり、蒸して固める現在のプーアール茶づくりの原型をこの土地に伝えたのはヤオ族の可能性があります。
またヤオ族は移動先のラオスやタイにおいても喫茶文化を普及させる役割を果たしています。


■攸楽山(基諾山)
攸楽山は景洪市から近い(約53キロ)にある、歴史ある江北六大茶山のひとつで、清国はここのお茶の風味を高く評価していました。
ここに住む基諾族(ジーノ族)は約2万人。中国で最も人口の少ない少数民族です。低地では温暖な気候を好むゴムの木が栽培がさかんです。古茶樹の農地は1500メートル以上の山深い高山地帯にあります。

攸楽山 攸楽山
攸楽山 攸楽山

国定公園にもなっている山奥には原始林や巨木があちこちにあります。森の巨木に囲まれるとまるで自分が小人になったように錯覚します。

攸楽山 攸楽山
攸楽山 攸楽山
攸楽山 攸楽山
攸楽山 攸楽山

農地は森林の中にあります。樹齢100年ほどのやや若い茶樹園もあり、これを「生態茶」と呼んで、茶畑の「台地茶」と区別しています。
お茶の味には江北の特徴があり、華やかな香りと爽快な風味が共通しています。易武山に比べるとややドライな印象があります。
1730年頃に清の乾隆帝がここに兵を500人駐屯させた記録があります。貢茶用の課税に反対する基諾族の武力がそれほど強かったと見ることもできます。ちなみに基諾族は刃物づくりが上手です。
またここの茶葉のドライな風味の「鮮辣」をやわらげるために、揉捻をしっかりとするように書かれた記録も残っています。

関連ページ
+【西双版納のの江南の茶山について】
+【プーアール茶の里と自然】

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