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お茶とプーアル茶の歴史 その1.記録


■はじめに
現在のプーアール茶は、中国雲南省南部から南西部にかけての山岳地帯でつくられる「生茶」と「熟茶」のことです。
その昔、思芽市のプーアール県(県は小さな町の単位)に国の関所があったことで、その地名をとって「プーアール茶」と呼ぶようになっています。
生茶と熟茶についてはこちら
+【プーアール茶の茶葉の見方】
西双版納についてはこちら
+【プーアール茶の里と自然環境】

プーアル茶の餅茶

しかしそれだけでプーアール茶をまとめるわけにはゆきません。
雲南省南部から南西部にかけてのお茶は、現在のような「生茶」と「熟茶」だけではありませんでした。
また、プーアール県を通らなかったお茶も少なからずありました。さらに海の向こうの国々ではそのお茶が雲南から来たことが知られていなかった時代もあったはずです。
イギリスからはじまった産業革命が世界を大きく変えてゆく以前は、お茶は交易品として国の経済を動かしたことがあります。その流通を制するために、世界各地で天下を分ける戦いが繰り広げられました。

広州旧外国人居留地

雲南のお茶はどこの国からしても遠い辺境地でつくられ、山の民族から平野の民族へ、街道の商人から海の商人へと、手から手へ渡りながら長い旅をしたので、その間に潜伏し、影の存在(つまり密輸品)となったこともあります。
関所を迂回する峠を山賊が導き、海峡を海賊が支配し、偽装品は地方豪族を繁栄させ、密輸での収益は植民地支配の資本となり、武器や阿片と交換されて、記録から抹消された取引もあったはずです。
地下水脈のように流通した過去もまた雲南のお茶の歩んできた道であり、今となっては歴史の魅力として語ることができるでしょう。
少し詳しい人は、高級プーアール茶の本場が産地の雲南省には無くて、そこから遠く離れた広州や香港にあることや、老茶と呼ばれる年代モノは東南アジアの華僑にコレクションされていたことを知っています。

三保宮・ペナン

プーアール茶の交易に関わった港や市場がそこにあるからです。産地の雲南省西双版納から遠く離れた港町の人々がこのお茶を愛した理由があるのです。

ペナン・ブルーマンション

さて、この先は独自の視点を織り交ぜて展開するので、教科書どおりにはなりません。史実をつきとめる立場にはないので、推測の部分も多くなります。そのように切り替えて解釈してください。また文書は加筆したり修正したりすることがたびたびあるので、印刷無用です。
話は長くなります。

■記録について
「茶」という植物を人間が利用しはじめた地域、つまり茶の故郷は、中国雲南省南部の西双版納から西へつながるミャンマーの山岳地帯や、そこからさらに西へとつづくインド北東部のアッサムの山岳地帯であるとされています。
その根拠は、山奥の自然林に茶樹が自生していることや、茶の原種とされる大木があること、そして有史以前からそこに住んでいたとされる山岳民族に、先祖代々茶の栽培に関わってきた言い伝えがあるからです。それを裏付けるような石器なども見つかっています。

西双版納南糯山

お茶づくりのために当店は雲南省最南部の西双版納のいくつもの茶山を訪ねていますが、裏山の自然林にはまだ茶摘みもされたことのない手つかずの野生茶樹がおびただしい数で群生しているのを見つけることがあります。
山頂付近の密林には茶の原種がひっそりと隠れていて、びっくりするような大木と出会うこともしばしばあります。
これらは野生茶に見えるようで、実はかつて山の人が栽培していたものが生き残り、野生化しているだけの可能性があります。

西双版納巴里達山野生茶樹

この土地で古くからお茶づくりをしている山岳民族の一部は、独自の文字を持たないので、古い話は言い伝えのみになります。
達磨大使の瞼が落ちたところから茶が芽を出したとか、信仰の創作話はさておき、大河の流れも雨水の一滴からはじまるように、茶と人との関係にもはじまりがあり展開があったはずです。
誰かが偶然発見した薬草的な茶の葉が日常の飲料となり、村から村へ、町から町へ、故郷を離れて喫茶の習慣や栽培が伝播してゆく過程があったはずなのです。

ところが、茶の利用についての記録がしっかりしてくるのは都市に喫茶習慣が普及してからのことです。
茶の歴史は中国が最も古いとされているのは、喫茶習慣がもっとも古くから記録にあるためですが、他の国々よりも都市生活が早く成熟していたというのも関係しているはずです。
漢の時代(紀元前206ー220)の四川に、喫茶についての確かな記録が見つけられています。当時の地方豪族に使える召使の仕事内容を記した書物に、茶を買ったり道具を整えることが書いてあります。
つまりそれはすでに町にあり、茶や道具を売る店があり、商品として流通していることになります。そこにいたるまでの、茶が故郷の山から旅立って都市の生活に取り込まれるようになるまでの、何百年かあるいは1000年を越える歩みに、明確な記録はありません。
考えようによっては、それまで茶は記録の必要な品ではなかったのかもしれません。

西双版納大黒山茶王樹

中国茶の聖典とされる『茶経』(唐王朝760年頃の最古の茶の事典)は、現在に至っても広く知られ、お茶の歴史を知る大きな手掛かりとなっています。著者の「陸羽」は茶をひとつの文化にまで高めたことで茶神とまで崇められていますが、しかし別の見方をすることもできます。
唐の時代背景や一般人の識字率を考えると、『茶経』は官僚や商人の通商のための実務書でもあったはずです。茶はすでにいくつかの産地からいくつもの都市に販売され、外国とも交易され、唐王朝に大きな税収をもたらしていました。
『茶経』での茶の産地の紹介に雲南は含まれていません。
蜀の西南部(四川からは雲南の方向を指す)に茶の根源があるとされている程度です。蜀の時代(221年 - 263年)の諸葛亮が四川から進軍し、雲南地方を一時的に支配したことがあるため、「蜀の西南部」と呼ばれるのでしょう。

西双版納ダイ族寺院

その頃の雲南地方は「南詔」(738年‐902年チベット・ミャンマー語族)という別の王国が支配していました。
唐王朝の領土ではなかったのです。
ついでに言うと、西双版納は19世紀後半に中国の領土と認められましたが、その後もたびたびミャンマーと国境線が争われていました。
もしも『茶経』の出版に通商発展の役割があったのなら、自国のお茶製品カタログに他国の産地を紹介しないのは当然のことです。たとえ陸羽がそれを意図しなかったとしても、国が検閲し、修正した可能性もあります。
本当のことは専門家が解明してゆくとして、ここで強調したいのは、記録にはこうした性質があるということです。

シンガポール・プラナカン博物館

ちなみに、どこの国であるのかも定まっていなかった雲南省西双版納と、ミャンマー・ラオスに国境線を引いたのは、1900年頃に中国を半植民地化していたイギリスと、ラオスを植民地化していたフランスです。それまではこの地域に住む少数民族たちと、交易のために移住していた漢族や回族が村ごとに自治をつくり、混沌としながら平和だった東南アジアのそのものの姿がこの地域にあったのです。

つづき
+【焼畑】
(お茶と出会った民族の旅)

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