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【オリジナルのお茶の記録】


瑶郷古樹青餅2014年 その1

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瑶郷古樹青餅2014年

■概要
製造 : 2014年5月15日(5月23日)
茶葉 : ラオス北部漫撒山国境付近
製茶 : ラオスの農家
茶廠 : 漫撒山の工房
工程 : 生茶のプーアル茶
形状 : 餅茶 180gサイズ
保存 : 西双版納―上海
※山の農家での混入物があるかもしれません。気をつけて取り除いておりますが、残ることがあります。あらかじめご理解ください。

瑶郷古樹青餅2014年

■生茶プーアール茶
2014年の春に入手した晒青毛茶でつくった生茶です。180gの小さなサイズの餅茶に加工しました。
当店のオリジナル品です。
+【当店オリジナルのお茶について】

瑶郷古樹青餅2014年

※製造日付は5月15日ですが、圧延加工が終了したのは5月23日でした。ラオスで原料の毛茶がつくられたのは2014年4月中旬です。

瑶郷古樹青餅2014年
(漫撒山の弯弓 2013年2月撮影)

■漫撒山とラオスの瑶族
漫撒山のラオス側でこのお茶は採取されました。瑶族(ヤオ族)の村がそこにあります。茶葉の質やお茶の味から樹齢数百年になる古茶樹であり、中国側にあるのに近い品種と推測しています。
山を越えてラオスに入ることができないため現地を確かめられませんが、瑶族の古い栽培手法が継承されていると思われます。瑶族は山岳地帯を移住しながら生きてきた民族です。ラオス北部の瑶族はかつて西双版納の漫撒山に住んでいました。
瑶族の故郷という意味で、お茶の名を『瑶郷青餅』としました。
漫撒山のお茶はいくつかの民族が「茶業」をもとにゆるい組織を構成しています。まだ農地となっていない森林のお茶の採取は、現在でも瑶族が行っているところが各所にあります。

瑶郷古樹青餅2014年
(漫撒山の古い地域「弯弓」の寺院跡には回族の石碑が残っている。)

漫撒山は現在の地名では「易武山」から北のラオス北西部に接する山岳地帯です。地理的に中国と東南アジアとの接点にあり、いくつもの輸送経路を持つことから、「私茶」の生産拠点になっていました。私茶とは国の徴税を逃れて交易される密輸茶です。
どんなお茶がここでつくられ、どこへ販売されていたのか?
このお茶のルーツについて少し触れておきます。
お茶を原住民が利用する食品や薬草としてではなく、外地に販売する「商品」と定義すると、西双版納のお茶は紀元前にさかのぼります。西南シルクロード(茶馬古道)の交易品のひとつとして、チベットからネパール・インドにかけての遊牧民と物々交換されていました。この時代のお茶はおそらく炙ったり茹でたりしたものを干したり燻したりしただけの簡単な粗茶でした。(運搬のために圧延加工もしたと考えられます。布朗族の竹筒茶もそのひとつです。)

瑶郷古樹青餅2014年

漫撒山に移住した漢族の商人は唐代(618年― 907年)から記録があります。この時すでに喫茶文化に育まれた「中国茶」の製法が伝わっていたかもしれません。鉄の鍋で炒る現在の製法に近いお茶もあったでしょう。喫茶文化の需要が世界に広がり、お茶はますます商品価値を上げてゆきます。
モンゴル帝国時代(1253年頃)に交易品を求めて雲南に移り住んだ回族(イスラム教の民族)もこれに目をつけたはずです。中国は元(1271年ー1368年)の時代ですが、西双版納は南詔王国の一部で、まだどこの国の領土であるという概念はなかったと思われます。
世界の市場を意識した「中国茶」づくりが明確にはじまったのは明代(1368年 - 1644年)です。西双版納の北の紅河州の漢民族が移住して、茶業の隆盛がはじまります。中国の都市や東南アジアを経て、ヨーロッパまで取引されたお茶の産地として西双版納は脚光を浴びたことでしょう。
どこの国の領土かが明確にならない古い東南アジアのまま、茶の一大産地となったので、その権利をめぐり王朝政府や地元の商人やお茶づくりに関わる少数民族たちの間で小さな紛争が絶えませんでした。

■ベトナムルート

瑶郷古樹青餅2014年

瑶郷古樹青餅2014年

明代から清代にかけて易武山の茶庄(メーカー)は同族経営でありながら莫大な利益を得て、武装組織さえ持つほどのチカラがありました。朝貢(徴税)を強要する王朝政府はプーアール県に関所を設け、ここを通るお茶だけを「プーアール茶」と認めるものの、その効果は限定的だったと思われます。関所を通らない大量の密輸茶が流出したひとつのルートが「ベトナムルート」です。漫撒山からラオスの北部を抜けて紅河へ、河を下るとハノイのトンキン湾に出ます。
1800年代後半にイギリスがほぼ独占したはずの中国茶ですが、広州や福州の指定港を出る船が積んでいた茶の量が、ヨーロッパの港で水揚げされるときには2倍の量になっていた記録があります。イギリス以外の東インド会社が中継に暗躍し、この利益を得ていたと思われます。

国も国境もあいまいだった漫撒山に線を引いたのは、1900年代初期にラオスを植民化したフランスと、中国を半植民地化したイギリスでした。
世界に売れる漫撒山の甘いお茶。パイを切り分けるように茶の利権を分けたかったことでしょう。

瑶郷古樹青餅2014年
(西双版納州景洪市に残るフランスの教会の跡。布教と植民地支配はセットだった。)

ところが、この頃からイギリスのインドにおけるプランテーションが成功し、大量生産の安価な紅茶が世界を席巻します。
雲南省南部においても茶園の開発がすすみましたが、生産効率や価格競争に敗れた中国茶はしばらく低迷期を迎えます。
1950年頃、易武山にあった茶庄のお茶の販売が禁止され、雲南の茶業は専売公社制となり、国営メーカーと国営貿易商社の独占となります。これによって漫撒山のお茶づくりが消滅しました。地理的に様々なルートから輸出可能な漫撒山のお茶が国民党の資金源となっていたことも、その背景にあると思われます。

瑶郷古樹青餅2014年

瑶郷古樹青餅2014年
(漫撒山の典型的な茶樹 丁家老寨2013年3月撮影)

■収茶
このお茶の原料となる晒青毛茶(天日干しで仕上げた緑茶)を見つけたのは北京の愛好家でした。

瑶郷古樹青餅2014年

コレクション目的で旧六代茶山の晒青毛茶を集めていました。「倚邦古山」・「蛮磚古山」・「革登古山」・「莽枝古山」・「攸楽古山」そして「漫撒(易武)古山」。ところが、漫撒山に質の良いのが見つかりません。標本となるよう茶山の個性がお茶の味に現れていることが条件でしたが、すでに春の第一波(初摘み)の収穫が終わった4月末で、質の良いのを入手するのが難しい状況でした。そこで当店に相談があり、集められた晒青毛茶を順番に試飲していたところ、オマケとしてこのラオスの散茶がありました。辺境地のお茶を専門にする茶商から入手されたものでした。

瑶郷古樹青餅2014年

瑶郷古樹青餅2014年

瑶郷古樹青餅2014年

「これを漫撒山のお茶としたらどうか?」
北京の愛好家はその提案の意味が理解できなかったようなので、当店の手元にある漫撒山の「弯弓」・「丁家老寨」・「一扇磨」の晒青毛茶と飲み比べました。ラオスの散茶はしっかり漫撒山の特徴があり、それだけでなく近年の農地の古茶樹には失われがちな滋味がしっかりありました。葉底(煎じた後の茶葉)の形は「熟した枝」をつくる瑶族の栽培方法に共通する特徴も見られます。
参考ページ
+【漫撒古樹青餅2013年・栽培】
ラオスの瑶族は春の茶摘みの季節に山を超えて中国側の漫撒山にお茶づくりのアルバイトをしに来ます。
そのため現地では手が足りなくなるので、茶商は注文しにくいため、シーズンの終わった4月末でもまだ晒青毛茶が残っていると考えました。地元の茶商(パスポート無しで山を超えられる)に依頼してラオスの村に行ってもらいました。
雨で山道が崩れて茶商が3日間戻ってこないハプニングがあったものの、4月中旬につくられた30キロ弱の晒青毛茶が入手できました。このうちの10キロ弱を譲ってもらい、圧餅(圧延加工)しました。

瑶郷古樹青餅2014年

■その2 品茶
+【瑶郷古樹青餅2014年 その2.】

瑶郷古樹青餅2014年 1枚 180g


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